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代々木競技場の歴史

 国立競技場の中で、まさしく「東京オリンピック」の申し子とも言えるのは、この「国立代々木競技場」(以下代々木競技場、または競技場)でしょう。

 この競技場ほどいろいろな名称を持ったものはありません。当初は「国立屋内総合競技場」そして建設用地の地名をとっての「ワシントンハイツ屋内総合競技場」、「国立代々木競技場」。さらに「代々木オリンピックプール」「代々木競技場」「代々木第一体育館」「代々木第二体育館」等々です。

 「屋内総合競技場」の名称にあるように、当初は柔道も行えるような施設を目標にしていました。これは、日本が戦前戦後を通じ「水泳ニッポン」というように水泳競技に対して国民の関心が高く、また好成績が期待されていたことと、柔道に関しては、東京オリンピックで悲願の公式種目になり、やはりメダル独占を狙っていたことに起因しています。

 さて、この代々木競技場建設用地の決定には、昭和33年の第3回アジア大会当時予定していた「新宿御苑(旧近衛連隊跡地)」からはじまり、選手村用地と共に非常に難航しました。
第一体育館建設風景
【第一体育館建設風景】

 当時、東京都内の広大な利便性のある土地は、ほとんど在日アメリカ軍に接収されており、特に広大な敷地を必要とする選手村の用地はアメリカ軍との交渉が必要でした。そのような状況の中、昭和34年の東京オリンピック招致決定から、用地選定は紆余曲折しながら約2年間のアメリカとの交渉の末、現在の代々木公園、青少年センター、NHK、織田フィールド等の施設のある「ワシントンハイツ」に選手村と代々木競技場が建設されることに決定しました。             

 この「ワシントンハイツ」は92万4000uの敷地を有し、827世帯のアメリカ軍家族宿舎や共有施設として将校クラブ、劇場、教会等が建てられ、日本人は立ち入り禁止地域でした。それ以前(敗戦前)は「代々木の原」と呼ばれていた土地です。

 選手村は、このアメリカ軍宿舎を改修するなどして使われました。

 代々木競技場は、「建設・総合意匠」丹下健三、「構造」坪井善勝、「設備」井上宇市の日本建築界の代表者3氏によって設計されます。そして、オリンピックまであと20か月と迫った昭和38年3月建設工事がはじまりました。

  霞ヶ丘競技場が、戦後の日本が国際スポーツ界に復帰する第1歩である第3回アジア大会開催を記念する建造物とすれば、代々木競技場は、日本が国際的にも認知されるための東京オリンピック開催を記念する建造物となるように計画されました。

  代々木競技場はオリンピック開催まで残すところ39日という綱渡り的な工事で、起工から18か月で完成します。


  構造は、世界に類のない高張力による吊り屋根方式で、明治神宮の森の美しい環境を生かし、高い芸術性を保っています。日本を代表する建造物の誕生です。また、内部には岡本太郎氏の原画によるレリーフなどが配されており、建造物というより芸術作品に近い施設となっています。 
第一体育館内のレリーフ
【第一体育館内のレリーフ】


第一体育館建設風景(内部)。中央下部は飛び込み台
【第一体育館建設風景(内部)】
 この代々木競技場の設計に功績があったとして、丹下健三氏は1905年にクーベルタン男爵によって提唱された「オリンピック功労賞」を日本人としてはじめて受賞します。この賞の最初の受賞者は「T・ルーズベルト大統領(当時)」です。

 東京オリンピックでは、第一体育館(当時は本館)が水泳競技、第二体育館(当時は別館)ではバスケットボール競技が行われました。

 そしてオリンピックに引き続き、代々木競技場を中心に「国際身体障害者スポーツ大会(パラリンピック)」が開催されます。

 当初より、夏はプール、冬はアイススケート場としての設備機能を持たせ、またプールの上に床をはって体育館としての使用も可能な機能を指向していました。そして、東京オリンピックが終了した昭和39年の12月25日アイススケート場が公開されます。この公開によって何かと暗いイメージのあったアイススケート場が一新し、開場5年目の昭和43年に100万人、昭和46年には200万人、10周年の昭和49年には300万人目の入場者がありました。

 オリンピックの翌年の夏には「こどもプール」を公開し、その翌年には各種スポーツ教室を開講するなど霞ヶ丘競技場と同様に「家族が一緒にスポーツを楽しむ、レクリエーションの場」としてのスポーツ振興策が実施されていきます。

 ユニバーシアード東京大会から10年目の昭和52年3月の約1か月間に世界的規模の大会が連続的に開催されることとなります。「世界フィギュア選手権大会」と「アイスホッケーBグループ世界選手権大会」です。国際的には当然のことでしたが、はじめて国立競技場に広告(フェンス)が登場しました。

 そして同年の11月にはアイススケート場の上に床を仮設しての「第2回バレーボールワールドカップ‘77大会」が開催されました。氷の上に床をつくっての競技で、結露等色々な課題が残りました。翌年5月には「国際ロータリー年次大会」が第一体育館で開催されましたが、今回はスケートとプールの転換時期で、解氷もされており、順調にフロアー仮設が行われ、今後の転換時期の有効利用の方法を示唆したと云えます。

 このフロアーとしての活用は、建設当初の基本計画から指向されており、代々木競技場が完成してから13年の歳月を経て、アイススケート場やプールの一般公開や競技だけではなく、多目的競技施設としての代々木第一体育館の顔が浮かび上がってきます。

 そして、新たな事業が展開されます。昭和58年から開催された競技施設だけではなく周辺園地も利用した「国際スポーツフェア」です。この行事より、代々木競技場は、スポーツ施設としてだけではなくコンサート会場としての利用も行われ、「文化施設」としての顔も持つようになります。

 また、昭和60年には「第16回全国高等学校バレーボール選抜優勝大会」が開催され、代々木競技場は「高校バレー」のメッカとして定着するようになります。
プール時の様子
【プール時の様子】

スケートリンク時の様子
【スケートリンク時の様子】

現在の競技フロアの様子
【現在の競技フロアの様子】


 代々木競技場は、完成以来40年を経ていく中で、利用者の安全を確保すると共に、この芸術性の高い建造物を損なうことなく幾度かの大規模な改修工事を行ってきました。

 そして、渋谷の街同様、変貌を遂げながら、様々に利用されてきました。今後も立地条件を活かし、時代の要請に応えながら幅広く利用されるように努めます。

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