当初より、夏はプール、冬はアイススケート場としての設備機能を持たせ、またプールの上に床をはって体育館としての使用も可能な機能を指向していました。そして、東京オリンピックが終了した昭和39年の12月25日アイススケート場が公開されます。この公開によって何かと暗いイメージのあったアイススケート場が一新し、開場5年目の昭和43年に100万人、昭和46年には200万人、10周年の昭和49年には300万人目の入場者がありました。
オリンピックの翌年の夏には「こどもプール」を公開し、その翌年には各種スポーツ教室を開講するなど霞ヶ丘競技場と同様に「家族が一緒にスポーツを楽しむ、レクリエーションの場」としてのスポーツ振興策が実施されていきます。
ユニバーシアード東京大会から10年目の昭和52年3月の約1か月間に世界的規模の大会が連続的に開催されることとなります。「世界フィギュア選手権大会」と「アイスホッケーBグループ世界選手権大会」です。国際的には当然のことでしたが、はじめて国立競技場に広告(フェンス)が登場しました。
そして同年の11月にはアイススケート場の上に床を仮設しての「第2回バレーボールワールドカップ‘77大会」が開催されました。氷の上に床をつくっての競技で、結露等色々な課題が残りました。翌年5月には「国際ロータリー年次大会」が第一体育館で開催されましたが、今回はスケートとプールの転換時期で、解氷もされており、順調にフロアー仮設が行われ、今後の転換時期の有効利用の方法を示唆したと云えます。
このフロアーとしての活用は、建設当初の基本計画から指向されており、代々木競技場が完成してから13年の歳月を経て、アイススケート場やプールの一般公開や競技だけではなく、多目的競技施設としての代々木第一体育館の顔が浮かび上がってきます。
そして、新たな事業が展開されます。昭和58年から開催された競技施設だけではなく周辺園地も利用した「国際スポーツフェア」です。この行事より、代々木競技場は、スポーツ施設としてだけではなくコンサート会場としての利用も行われ、「文化施設」としての顔も持つようになります。
また、昭和60年には「第16回全国高等学校バレーボール選抜優勝大会」が開催され、代々木競技場は「高校バレー」のメッカとして定着するようになります。
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 【プール時の様子】
 【スケートリンク時の様子】
 【現在の競技フロアの様子】
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